水の向こうの友情 |
さて、もう泣き止んだのかな。
そっと、目を開ける。 『ん……』 葉から滑り落ちた雫が、私の視界を乱した。波紋になっているだろう、乱れた視界がゆっくりと整理されると、晴れた秋の空が、私を待っていてくれたかのように目に飛び込んだ。 綺麗な空だ。だがこれを楽しむには、少々余裕が必要だ。 現在の私には、その余裕が少し足りない。いや、大分足りない。 すなわち、ここがどこかわからないのだ。 前にいた世界は、こんな空は見えなかった。こんなに高い空ではないし、ぼんやりと、光を失った昼の月がはっきりと見えない。じゃあ、どこ? 『困ったなあ』 言っても解決しないと言うのに言う。特にやることも無かったので、とりあえず言ってみただけだ。 ゆっくり考えよう。いずれにせよここから動けないのだ。ゆっくり、考えればいい。 ◆ しばらく待っていた。 どこからか、歌声が聞こえる。正直言って上手くはない。しかしとても透き通っている、小鳥のさえずりのような声だ。 しばらくすると、軽い足音が聞こえてきた。そこで気づいた。その歌の主は思ったより離れていた。よく通る声だなあ。 風が草を、大地を撫でる音。風が葉の間を通り抜ける音。そして、この歌と少し違う、澄んだ鳥の歌声。 すべて足して私の耳に入るから、結構な音量になるのに、この歌声だけは鮮やかに、他の音に流されることなく私の耳に入る。 他の音を押しのけるような、あつかましさは感じない。まるで、すべての音がこの歌声に、自主的に道を譲ってるかのようだ。 「らららー――。あれ?」 歌が止まった。遠慮していた音が、譲っていた道に戻る。気づいたかな。 私の視界の端に、若草が現れた。いや違った。髪だ、緑色の。あまりにも自然に同化していた色だから、気づけなかった。 髪の毛に続いて、ひょっこりと顔が出てきた。私を覗き込んでいるらしい。整った顔をしている。顔からすると、十歳をちょっと超えたくらいかな。 彼女が一瞬、ぽかんとした表情になった。この表情も可愛らしい。 徐々に、状況が飲み込めてきたのだろう。段々と、表情が恐怖にゆがんでゆく。 ワンテンポ遅れて、 「ひいっ!」 ああ……やっぱり怖がっちゃったか。 水に女が映っていたら、当然驚くよね。こっちとやら、驚かれるのは慣れているので、別に気にすることではないのだが。 さて、この子は非常に混乱している。けれども、心配は無い。これからすべき行動は、マニュアルが頭の中にあるので安心だ。 『こんにちは。何もしないから安心して』 とりあえず落ち着かせる。 恐る恐る、その子は私を覗き込んだ。二回目だからか、さっきのように驚かなかった。大抵の子はこれを三度繰り返すのだが、この子は特別らしい。 まだ目が少し怯えているが、これなら大丈夫だ。十分コミュニケーションを図れる。 『こんにちは、いい天気ね。 あなたはだれかな?』 できる限り優しい声で尋ねる。相手は幼い少女だから、これでいいはずだ。 「だ、大妖精……」 何とか答えてくれた。よし、いい感じだ。これなら成功は確実だ。 それにしても変わった名前だ。ニックネームかな。そうだとしても、かなり変わっている。まあ今はそれより、大切な事がある。そっちを優先だ。 『そう、じゃあ大妖精ちゃん、ここはどこかな?』 「……幻想郷です」 『幻想郷?』 聞いた事がない。日本にそんな場所あっただろうか。新しいテーマパークか何かか。まあ、そういう事は聞き出せばいい。 『そう、ありがとう。 私はどこか遠いところから来たんだけど、ここについて教えてくれないかな?』 大妖精ちゃんは少し安心したらしく、こくりと頷いてくれた。 大妖精ちゃんの説明はわかりやすく、かつ聞きやすかった。本当に綺麗でよく通る声だなあ。 ◆ 『色々とありがとうね。助かったわ』 平静を装って返事をしたものの、非常に混乱していた。幻想郷、妖怪、妖精、魔法、信じられない事尽くしだ。でもこの子の顔は真剣だったから、嘘ではないだろう。 通りで見た事が無い場所のはずだ。空の違いで、すでに心のどこかでは気づいていた。気づかなかったのは、信じたくなかったからだと思う。なんだかんだいって、あの世界を気に入っていたのだ。が、不思議と悲壮感が無い。 いい世界に来れた、という気持ちが溢れる。 本当は根本的な事が解決していないのだが、こうして誰かと話す事ができたので、結果オーライだ。 「いえ、いいんです。 ところで……あなたは妖怪ですか?」 妖怪、と言ったか。なかなか面白い冗談を言う子だ。いや、違った。この幻想郷には、本当に妖怪が出るんだっけ。 『いや、違うよ。 私は幽霊。水のところで死んだせいか、こんな姿になっちゃったの』 大妖精ちゃんは、納得しているようだ。流石幻想郷。 「水に映る事しかできないんですか?」 そうよ、と返した。 本当は嘘だ。『雨が降るのを予知できる程度の能力』、とでも名づけようか。 だから、自分の旅立ちの時期がわかるのだ。 そんなこと教えても意味が無いと思ったので、言わなかったが。 そういえば、大妖精ちゃんはもう普通に話せるようになっている。 私は水――ではないが似たようなものだ。黒い長髪、病気を通り越した青白い顔、挙句の果てには水にだけ映る女。自分では動けず、私が住む水が移動するとき、共に移動する。水と私は一心同体。水も私も旅人なのだ。 怖がる要素はたくさんあると思うのだが……やはり子供なのだろう。私を見た大人たちは、一目瞭然で逃げ出したのに。子供というのは、時に恐るべき行動をする。 子供は、見かけで人を完全に判断しない。だからこそ、誰をも受け入れてくれる。子供しか持たない、大人に忘れられた大切な要素だ。 ところで、何の話をしようか。出会ったばかりの人とは、会話が途切れて困る。友情が固まってきたのなら何でもない会話に華を咲かせる事ができるが、もちろんこの子は、出会ったばかりの人に分別される。たったこれだけの時間でこの子の友達を気取るなど、あつかましいにも程はある。 誰に向けるわけでもない批判はこのくらいにして、このこと話をしよう。 では、こんな質問はどうだろう。 『ねえねえ大妖精ちゃん。 あなたにも友達いるよね、どんな子なのかな?』 「友達ですか? たくさんいますよー。 まず――」 チルノ、ルーミア、リグル、ミスティア――色々な名前が出てきた。皆、変わった名前だ。私が混乱しないように、一人一人がどんな子なのか丁寧に話してくれる。 その子たちには会った事がないはずなのに、昔からの友達のように、その子たちの事を知る事ができた。大妖精ちゃんは皆の事を、よく見ているらしい。 特に、『チルノ』という子の話をするときは、非常に嬉しそうで、仲がいい事を切実に語っていた。本人は意識していないだろうが、彼女のその子に対する愛情が、ぽろぽろとこぼれている。いや、あえてこぼしているのかも知れない。 つくづく、この子はお姉ちゃんなんだなと思った。話からするに、この子達はお姉ちゃんに甘えているようだ。お姉ちゃんはお姉ちゃんで、少しは楽をしたらいいのに。 『いいお友達がたくさんいるのね。羨ましいわ』 「ええ!」 本当に嬉しそうに頷く。とても仲良くしているのだろう。いい事だ。 友達がたくさんいる、というのはどんな感覚なのだろう。残念ながら、私自身その疑問に答えることはできない。 「あっ……」 おや。 『どうしたの?』 「ごめんなさい、さっき言った友達と、これから遊ぶ約束してて……」 『ああ、なるほど。 どうぞどうぞ、いってらっしゃい。今日はありがとうね』 平静の仮面を被り、未練など無い事をアピールする。仮面の下私は、残念な顔をしているが、それが大妖精ちゃんに伝わると彼女に迷惑を掛けてしまう。だから私は、より深く仮面を被った。 今日一日の貴重な時間を私にくれたのだから、文句は言うまい。それに、短い時間だったが楽しかった。心からそう思う。 「また、来ますね! さようならー」 大妖精は手を振りながら、去っていく。私も振り返す。 本当にいい子だった。それに加えて優しい。今日の事で、色々振り返るべき事はあった。だが、それよりも、また来てくれるかも知れないという喜びのほうが、優先されていた。 ◆ 『あら?』 次の日、約束どおり彼女が顔を出した。見間違いではないかと思ったが、彼女の事は記憶として鮮やかに残っていたから、忘れるはずも、見間違えるはずも無い。一瞬疑ったのは、私の信じられないという気持ちが見せた幻だ。 心の隅では、彼女がここから動けない私に、優しさをくれたのかと思っていた。でも、そのような悲しい優しさではなく、真の優しさだった。改めて、この子が本当にやさしく、お姉さんなんだなと感じた。同時に、疑った私を心のそこで殴っておいた。この阿呆、と。 彼女は理知的でありながら、明るい笑顔で、「こんにちは」と一言、私に優しく投げた。私もそれを返す。 『今日も来てくれたのね』 「だって、楽しいんですもの」 『そっか。嬉しいな』 今日は、夕方まで大妖精ちゃんと話をしていた。主に、友達の事だった。本当に、仲がいいらしい。 ……だから、友達のことを話すとき、一瞬悲しそうな顔をしたのは、きっと気のせいだ。 ◆ 更に次の日、大妖精ちゃんが顔を出した。 『またきてくれたの?』 「ええ、遊ぶ約束がないので」 なぜか、少し焦ったような、取り返しの付かないような顔をしていた。一瞬何か嫌なものを感じたが、気づかないふりをした。 大妖精ちゃんの顔が、生前の私のような顔をしていたのにも気づいたが、同じ処置を取った。 ◆ こんな日が、何度も続いた。そのうちに私は大妖精のことを、『大ちゃん』と呼ぶようになった。 ここ数日、私と大ちゃんの距離は、凄い速さで接近している。お話をする時間も、一日毎に長くなっている。 ひとつ気になった。この前大ちゃんは、仲のいい友達がたくさんいる、と言っていた。なのに、こんなにたくさんの時間を私に割いていいのだろうか。 『ねえ大ちゃん』 「なんですか?」 『私の相手をしてくれるのはいいんだけど……他の子は大丈夫? 大ちゃん、結構お姉さんでしょ? 遊ばなくても、大丈夫かしら?』 「大丈夫ですよ、最近は約束がないんです!」 元気に返す。なら安心だ。 とは、断定できない。私の質問を聞きつけてから返事をするまでのわずかな間、一瞬大ちゃんの顔に、影が差した。幸か不幸か、私はそれを見逃さなかった。この前の予感が現実になる可能性が、急上昇した。 『本当に?』 これで本当にいいのか迷ったが、念押しをする。大ちゃんの心が、ちょっとよろけるのが見えた。表情が少し硬くなり、すぐに諦めた顔になる。 「実は、最近ちょっと疲れちゃって……」 『やっぱり。大ちゃんは他の子より大人な、皆のお姉ちゃんだもんね。 毎日相手をしていると疲れるよ』 この子なら余計にだ。関係ないことまで自分の中に溜め込みそうな性格をしている。……生前の私のようだと思った。 『ちょっと落ち着いたら、戻ってあげようね。あんまり私とばかりいると、本当に友達無くしちゃうから』 「はい……」 あまり元気はないが、私の耳にははっきりと入った。やはりよく通る声だ。 『じゃあ、お話しよっか』 大ちゃんは元気に頷いた。 私もこんな友達が生前に欲しかった。 こんな友達がいたら、あの時の友達に誘われて、川に身を投げることも無かったかもしれない。 ◆ 次の日、大ちゃんはまたやってきた。なぜ来たのか、何となく理由はわかる。が、昨日も注意をしたので、何も言わないことにする。 友達の話になるときは、少し苦しそうな顔をしていたが、何ともないふりをしていた。何か嫌なことを思い出したのだろう。だが、それを乗り越えていける大ちゃんは、やはり大した子だ。 夢中に話していた。 この時間がいつまでも続くと思っていた。が、大ちゃんの表情が凍りついた。二人の声の間に、突然の割り込み。それが大ちゃんの表情を凍りつかせたことに、間違いない。 何度も何度も、その声は大ちゃんを呼んだ。 「大ちゃーん! こっち向いてよー!」 元気な声だ。先程凍っていた大ちゃんの表情が、続けてさあっと青ざめる。もしかして友達だろうか。しかも、最近大ちゃんを悩ませているという。 「ごめんなさい、ちょっと行ってきます!」 大ちゃんはそれだけ言い残し、立ち去っていった。ずいぶんと慌てた様子だった。先程まで何となくだったものが、間違いなくなった。 「約束忘れちゃ駄目だよ」 「ごめんね」 こんな会話が聞こえてきた。少し大ちゃんの口調がきついような気がする。気づかない程度だが。心の底では疑っていた。やはり、そうだったのだ。確信は、完全なものになる。 今日も約束をしていた。しかし、苦しかったのだろう、その約束を反故にしたのだ。 大ちゃんは約束を破り、私と会うことを優先した。喜ぶべきなのか、叱るべきなのか、それとも嘆くべきなのか。私の気持ちにこたえてくれるものは、誰もいなかった。 あまり感じたくはなかった。だが、最近思わずにはいられない。大ちゃんが生前の私に見えて仕方が無い、という事を。 ◆ 今日も、彼女はやってきた。 『ねえ大ちゃん、本当に大丈夫かな』 「大丈夫です、少しは反省したらいいんです」 やはり、何かトラブルがあったのだ。いつもいつも優しそうな大ちゃんだが、今日は友達に対して冷たい。私という歯車の噛み合う友達が新たにできて、今までの友達が醜悪な存在に見えたのだろう。 所詮、彼女の中にある私も、幻だというのに。そんな都合のいい友達など、存在しない。私がいた世界でも、この世界でも。……絶対に。 『そろそろ仲直りしたほうがいいんじゃない? 皆心配してると思うよ』 「でも……」 まだなにか言いたそうだったが、その言葉は飲み込んだのだろう。「わかりました」と大ちゃんの口から漏れた。 ……わかっていないだろう。でも、追求はしなかった。 私自身こんな子だったのだから、追求できるはずもない。 結局、こんな最後になってしまった。大ちゃんと私の間にできた溝を埋める事はできなかったのだが、時は来る。 明日、大雨が降る。再び旅に出る時期が、やってきたのだ。 ◆ 予想通りの大雨だ。私が流されるまでそれほど時間がかからないだろう。大ちゃんには申し訳ないが、仕方が無い。 雨が私の視界を乱すので、ほとんど見えない。しかし、少しだけ雨に感謝した。別れるときになって、この場所に未練を残すわけにはいかないから。 私の期待は裏切られた。黄色い塊が、乱れた視界に映ったのだ。 『大ちゃん、来たの?』 「ええ、来ちゃいました」 息が荒い。何となく、理由がわかる。 大ちゃんが、のしかかる様に私を覗き込んだ。結果、雨は私に降らなくなり、視界がはっきりとした。 玉のような汗をかいた大ちゃんが、よく見える。 『今日も逃げてきたのね?』 大ちゃんは答えない。その代わり、わかりやすすぎるほどに表情が曇った。肯定の意味ととらえて、間違いない。 ……この表情には、覚えがある。 が、とりあえず保留だ。もっと大切な事がある。 『大ちゃん、大事なことだからね、聞いてくれる?』 「はい、何ですか?」 『大ちゃん。 今日を最後にしよう?』 「……え?」 大ちゃんの咄嗟に浮かんだ声が、はっきりと耳に入った。どういうことだ、と聞きたいのだろう。 心が痛い。が、ここで言わなければ、大ちゃんの未来を奪ってしまう。 『あのね大ちゃん。私はもう、ここにいられない』 「そんな、どうしてですか!?」 『前にも言わなかったっけ? 私は水に映る霊よ。だから、この水と一緒に移動しなければならない。 大雨が降ったのも、私に対する罰。あなたとの縁を切らなくてはならないの』 「う、嘘ですよね? 友達と遊ばない私に、怒ってるんですよね。 遊びますから、今かくれんぼしているんです、見つけてくれるの、待ってるんです」 詰まりながらも、最後まで吐き出された言葉は、私の耳に滑らかに滑り込んだ。今にも泣き出しそうな声だ。感情を動かされる。 だが、これだけは譲ることはできない。 『……私が生きているときにね、私と同じ体をした幽霊に出会ったの。 本当に優しくて、すぐに仲良くなった。この子は親友だ、と思った。 そう思い始めたころから、私は他の友達がいる人生が嫌になった』 「……」 急に話を変えたというのに、大ちゃんは黙って聞いている。 『私は、その子と一緒に暮らすことを選んだ。だから、その子がいる水に、身を投げた。 身を投げる直前、水面に私の顔が映った。その時の私の顔に、大ちゃんの今の顔がとても似ている』 大ちゃんは焦るような表情になる。息が荒い。やはり、私の顔に似ている。 『飛び込んだ。そして私は死んだ。その子と同じ姿になれたことを喜び、必死に探したよ。でも、いなかった。 気づいた。私はその子に、誘われたんだって。多分その子は、私にこの水を押し付けて――』 「嫌!」 雨の音が聞こえなくなるほどの大声を出され、体が震えた。 「別れるなんて、嫌!」 『大ちゃん、お願い。このままじゃ、大ちゃんもきっと私みたいに――』 「嫌!」 拒否でありながらも透き通った声が、私の耳を貫く。鼓膜が信じられないほどに震える。 『思い出してよ、チルノちゃんや、リグルちゃんを。たくさんお友達がいるんでしょ?』 「嫌、あなたのほうがいいもん!」 『……お願い』 「嫌嫌嫌!」 水は旅人。その水と共に旅をするのが、私に課せられた罰なのだ。今まで持っていた友達を捨て、自分勝手に友達を選んだ。その結果、その友達の呪いを浴び、成仏する事ができない。 『大ちゃんにはまだ友達がいる。大ちゃんは、私のように、本当の友達が一人もいなかった子じゃない。まだ、戻れる』 「でも、でも――」 『大ちゃんが築いてきた友達関係は、この数日で簡単に壊れてしまうものかな? 違うよね』 大ちゃんのことだ。きっと本人が気にしているほど、回りは気にしていないよ。 私も、生前はこうあるべきだったんだろう……。 『そろそろ、お別れね。 最後がこんなんでごめんね。今までありがとう、大ちゃん』 会話が終わるのを待っていたかのように、牙をむいた水の音が耳に入る。 今まで、私に罰を与えたものを恨んでいた。 でも、違う。結構その方は優しいじゃないか。このタイミングで、二人の縁を切ってくれるのだから。 体が引っ張られるような感じがした。しばらく感じていなかった、流されるという感覚だ。懐かしい。不思議と、安らぐ。 「嫌! 嫌だ!」 私を掴もうと、大ちゃんが手を伸ばす。その体が、大きく傾く。 しまった。水の流れは、私が思っているよりも強かったのだ。大ちゃんが、水の流れに巻き込まれつつある。 『駄目! 大ちゃんも流される!』 「いいもん、一緒に行くの!」 大ちゃんの体が、どんどん水に沈んでくる。まずい。あの時の私の姿と、今の大ちゃんが重なる。 『離れなさい!』 「やだ!」 私の視界いっぱいに、大ちゃんの体が映り、やがて大きな音が聞こえ、何も見えなくなった。大ちゃんが水に飛び込んだのだ。 まずい。このままでは、私が大ちゃんを連れて行ってしまう。 今ならまだ、助ける事ができるはず。でも、私はこの体。物理的な力を使えない。万事休すだ。 凄い速さで頭が回転する。オーバーヒートしそうな勢いだが、冷静に、私の頭は動いた。 そして、ひとつの答えが導かれた。物理的な力が無理なら、大ちゃんを説得するしかない。 大ちゃんの、固い決意を揺さぶる何か、何でもいい。何か――。 思いついた。大ちゃんは今、死という恐怖を乗り越え、会えるかどうかもわからない私の元に来ようとしている。なら、この世に未練を残す何かを伝えればいい。 何か、何か――。 『……水死するのは、とても苦しいよ。後悔しても、この水の勢いじゃ絶対に戻れない。 もし死んだら、チルノちゃんたちにもう会えなくなる。もしこの体に生まれ変わり、もう一度会えたとしても、長い付き合いは望めない。水は旅人だもの』 一瞬、大ちゃんが戸惑った。大切なことを思い出したかのように、固まる。大ちゃんは黙り込み、水から顔をあげる。 私をじっと見つめた。水のように澄んだ瞳をしている。あの時の私とは正反対の、生きている瞳だ。 『……それでも、私と行きたい?』 大ちゃんの瞳が、わずかな恐怖に染まる。迷っている、迷っている。 『ね、友達の名前を呼ぼう?』 大ちゃんが、決意したように、息を大きく吸い込む。そして、吼えるように叫んだ。 「……チルノちゃん、リグルちゃん、皆、助けて!」 澄んだ大声が、雨を、水を、すべての音を押しのけた。あの時とは違う、他の追随を許さない、必死の悲鳴。透き通った悲鳴が、耳に飛び込む。鼓膜を突き破られたような気がしたのに、不思議と耳は痛くなかった。 「いた、大ちゃんここにいた! 流されてるよ!」 「何だって、早く引っ張ろう!」 大ちゃんではない声が聞こえる。よかった、やっぱり大ちゃんは、友達を失っていなかった。大ちゃんの友達が、ここに来てくれたのだから。 「大ちゃん、掴まって! チルノ、引っ張って!」 大ちゃんではない誰かの声が、私の耳に飛び込んだ。 大ちゃんが私から抜け出そうとし、水面に大小の波が立つ。もう何も見えなくなった。 しかし、大ちゃんが水から飛び出した音を、私は確かに聞いた。 そして、「お世話になりました」という声も、間違いなく聞いた。 「ありがとう!」 大ちゃんの喜ぶ声が聞こえる。私に対してではない、友達に対してだ。いや、両方かもしれない。 ともかく、よかった、本当によかった。これでもう、思い残すことはない。 ……待たせたね、行こうか。 水は、私の同意を得たことに喜んだのだろう。手を引くかのように優しく、私を運んでくれた。 ◆ あの後、大雨は嘘のように止んだ。 私はちょっと前に蒸発し、空に昇った。雲に抱きかかえられ、すぐに雨となって地に戻った。 そして今、私は小川を流れている。のんびりとしているが、やはり流れているので、景色は見えない。 近くで、子供たちが遊んでいるのだろう。歓喜の声が聞こえてくる。 「そっちいったよ!」 元気な子だなあ。実に素晴らしいことだ、うん。 声は澄んでいるし、聞き取りやすい。もし何か秘密話をしていても、筒抜けね。 「大ちゃん、飛ばしすぎ!」 「あ、ごめーん」 大ちゃん? 大ちゃんと言った? 今。 「チルノちゃん、そっちじゃなくてあっちだよ! 見ながら追いかけてるのに、何で見失うの?」 チルノ、チルノ……まさか。 そこまで考え、考えるのをやめた。 私に罰を与える方も、なかなか優しいじゃないか。こんな事を考えるのも、この体になってから二回目だ。 『よかったね、大ちゃん』 おそらくこの声は届いていないだろう。でも、そんなことどうでもいい。自己満足で言ってみた言葉なのだから。 さて、大ちゃんとはこれで完全に別れた。今度はどこに流されるのだろう。 どこでもいいな、友達さえできたら。水の生活というのも、思っていたより悪くは無い。今回のことで、はっきりとわかった。 もしかすると、今回のように次も苦労するかもしれない。 ……構わない。次に下される罰を、喜んで受けよう。きっと、それは罰であって、罰ではないから。 次はどんな子に会えるだろうと考える。色んな子に会いたい。大人は駄目だ、私を怖がる。やはり子供がいい。 「大ちゃん覚悟ー!」 チルノちゃんの声だ。こういう子もいいかもしれない。ちょっと頭が弱そうだけど。 大ちゃんみたいな子も、もう一度会えると嬉しいな。 まあ、着いてからのお楽しみだ。 そんなことを考える浮気性の私は、水の流れに、再び未来をまかせた。 【あとがき】 こんぺに出してみました、作品です。 個人的には瓢箪よりお気に入りですが、こちらのほうが評価は低かったですね。 ですが、大ちゃんを使ったというところでは、新しい発想だったと思います。 TOHO/SS/HOME |