八雲の辿る道

「何故だっ……!」
 拳に宿った怒りの矛先は土壁へ。それだけで土壁には大きな穴が開き、隙間風が私を撫でた。
 拳には表面上な傷はひとつもなかったが、痛みが拳に集中し、全身に一瞬寒気を感じた。
「教えてください、紫様、藍様……!」
 随分と古くなった天井に向かって、かつてこの部屋で暮らしていらした、二人の主に呼びかける。天井越しの空にいらっしゃるお二人は、答えては下さらなかった。
「どうして私は、あなた達に追いつけないのですか……!」
 私は間違いなく八雲の名を継いだ。式も一人持った。たくさんの事を知った。スキマも使えるようになった。
 何故だろう。
 どうしても、あなた達に追いついた気がしないのです。どうしてなのですか、紫様、藍様――。

 頭を抱え、畳に顔を埋めた。顔が擦れて痛みが走るが、答えは出なかった。
 ……あまりこの事を考えすぎると、頭がおかしくなりそうだ。

 彷徨う視線を時計へと定める。そろそろ昼か。
 部屋を出て居間へ。予想通り、そこには私の式がいた。
「お昼ご飯の準備をそろそろしてくれるかしら?」
 式に声を掛けると、瞬きをしている間に背筋を棒のようにまっすぐ伸ばし、軍人のように威勢がいい声で返事をした。部屋中に声がリフレインする。
「私は自分の部屋を掃除しているから」
 雑巾を手に取る。バケツに水を張り、水が滴る雑巾を絞る。美しい水音も、こうすると濁った音になる。この音を聞くと、よく掃除をなさっていた藍様を思い出す。もう、数えるのが嫌になるくらい昔の事だが。
 思考は徐々に一人歩きをする。それはやがて、過去へとたどり着いた。

 【八雲の辿る道】

 ――は、は、はじめまして、ちぇ、ちぇ、ちぇんです!
 今思い出しても、この挨拶には恥ずかしくなる。
 
 私が藍様の式になったのは、冬のことだった。紫様とお会いしたのは、藍様の式となってからしばらく経っての事。
「紫様は強力な力をお持ちの大妖怪だ、無礼な事はするなよ」
 藍様にはよく言われていた。真剣な表情が、鋭くとがった藍様の目が、私の心を子羊のように怯えさせた。
 
 家事でも術でも、上手に出来ると、よく頭を撫でてもらえた。その時の優しさが、藍様のイメージだった。しかし、この件で藍様のイメージは一気に摩り替わってしまった。
 やはり、強力な式神なのだと実感させられたものだ。

 藍様の言葉を気にしすぎ、緊張した私が紫様にお会いしたときの挨拶が、先程の台詞だ。
 その時の紫様は凪のように落ち着いていて、一部の隙もなかった。
 私の挨拶を聞いているのかいないのか、それすらもわからない。
 紫様に目を合わせた。名前通りの、深い紫がそこにあった。その紫は何も映していない。私の姿さえも。
 失礼ながら私は、紫様のその態度に、心の中で紅蓮の炎が燃え上がるのを感じた。だから紫様の心を揺さぶるように、心の中で必死に叫んだ。決意、期待、もしかすると不安もあったかもしれない。だが、そんなのあっても当たり前だ。
 私の魂はとにかく、とにかく絶叫した。

 同時に、その炎を鎮火する何かが私の心から湧き上がってきた。しかしそれは一瞬で体から飛び出す。その代わり、別の何かが私の心に飛び込んだ。
 宿命にも似た、紫様と藍様に頼り護られるべき、という奇妙な命令系の何かだった。

 唐突に、紫様が何かに気づいたように、瞳の中の紫の炎が激しく燃えた。結局それが何を意味するのかわからなかったが、その直後から、紫様の表情が絹のハンカチのように柔らかくなったように思う。
 紫様は妖怪である事が嘘だと思えるような表情をして下さった、と当時は思った。だが、今はそれは違ったのだと思うようになった。
 あの美しさは、大妖怪である紫様の専売特許だったのだ。その証拠に、美しさの背景には妙な、心霊的な不気味さがあった。目を瞑っても、瞼の裏にその美しさが焼き付けられ、決してそのお姿を忘れる事ができない。
 だからだろうか。今も紫様の姿は、色褪せずに覚えている。

 話はそれたが、その時、初めて紫様が口を開く様子が、スローモーションのようにゆっくり、ゆっくりと見えた。
 何を仰るのか。口を開かれてから最初の言葉を仰るまでのほんの一瞬に、体が一瞬で冷えた。
「よろしくね」
 そして、どっと安心の汗が溢れた。
 直後、私は認められたという勝利にも似た感覚が、私の中を満たす。糸が切れ、畳に頭を突っ込んだ。
 お二人に笑われた。先程とはまるで違う炎が、顔の辺りで燃え上がった。


 冬眠からお目覚めになった紫様を交えて暮らすようになって数日。突然の出来事だった。
「藍」
 紫様は藍様を呼びつけ、目の前に座らせた。
「ゆかりんはまだまだベリープリティヤングなナウいガールだけど、そろそろ家事が面倒になってきたわ。
 あなたに任せても、いいかしら?」
「……ええ!」
 藍様は、なぜか嬉しそうにお答えになった。言い方は悪いが面倒を押し付けられたと言うのに、何故なのだろう。
 その日から、
「らーん、家事やっといてー」
「らーん、ごはんまだー?」
 という声が飛ぶようになり、更に家が賑やかになった。

 いつもごろごろなさっていて、自分から何かをすることなんて滅多にない。しかしつねにその顔には、笑顔があった。見ているとこちらも笑顔になりそうな、心を奪う笑顔だったが、やはり隙はなく、少々不気味に感じていた。

「藍さま藍さま」
 あるとき私は、紫様は強大な力をお持ちでありながら、なぜあのような――失礼だが、堕落した――生活をなさるのか、藍様にお聞きした事があった。
「ははは、何故だろうな。私にもわからないよ」
 本当にご存知ではなかったのか、嘘だったのか。どっちなのだろう。
 頭を優しく撫でられ、誤魔化された。

 ◆

 この部屋はかつて紫様が、藍様が使っていらっしゃった、八雲の当主が利用する部屋だ。そんな由緒ある部屋を汚しておくなど申し訳ない。
 そういう理由で、私はこの部屋を週に一度掃除する事にしている。
 畳を拭いていると、ふと先程穴を開けてしまった壁に目がいった。この穴も埋めておかなければ。非常に申し訳ないことをした。
 罪悪感に纏わり付かれるが、力を使えば楽に出来るし、あとで直そう。

 掛け軸のすぐ下の畳を拭く。掛かっていた掛け軸が頭に当たった。顔をあげるともう一度頭に当たった。この時になって、やっと掛け軸を外すという選択肢を思いついた。
 私が開けた穴の左隣にあった紫色と藍色の掛け軸を外すと、そこにはそれぞれ一つずつ、穴が申し訳程度に塞がれた跡があった。
 この部屋を譲ってもらった頃より前から、この二つの跡はあった。よって、私が開けた穴ではない。しかしながら、このように適当に塞がれているのなら、いっそ私が完全に塞ぐべきなのだろうか。
 しかし前の当主は藍様。こんなみっともない穴を放置するような性格だとは思えない。という事は、これも何か意味があるのかもしれない。

 ああでもない、こうでもないと一人で頭を捻っていると、遠くからの大声が耳に入った。
「橙様、手が放せません故このような手段をとる事をお許しください、お食事ができました!」
 堅い式だと思う。そんな事わざわざ断らなくたって、わかっているというのに。
 返事をしつつ、襖を開いた。料理独特の食をそそるにおいが、鼻腔を満たす。今日は味噌汁らしい。

 ◆

 あくまで自己評価に過ぎないが、私が紫様や藍様に守ってもらわなくても大丈夫なほど成長した頃、紫様がそれ以前よりも睡眠時間が長くなった。
 段々と自分の部屋から出てこなくなり、事あるごとに藍様をお呼びになっていた。
 部屋から出てこられた藍様は、いつも暗い顔をされていたのを覚えている。
 ――藍さま、どうしたんですか?
「ん、ああ、なんでもないよ。ごめんな」
 その後は、笑顔を表面に描いた仮面を被ったかのように、いつもの顔をされていた。尤もその時の私は、それが仮面だとは気づけなかったが。


 そして、ついにその日がやってきた。その日は何となく胸騒ぎがして、夜中に目を覚ましたんだった。
 理由はわからないが不安になり、やっと搾り出した小さな声で、藍様を何度もお呼びした。
 しかし返事はなく、次第に静かな恐怖感が沸き起こった。私の周りを、無機質な黒い壁が段々迫ってくるように感じた。
 私は逃げるように、襖を倒して藍様の部屋に飛び込んだ。藍様はいらっしゃらなかった。

 ならば今度は、と紫様の部屋に向かった。藍様は紫様の布団の前に座り、私に背を向けていらっしゃった。
 ――藍さま、どうしたんですか?
 私に驚いたらしく、藍様は顔をあげ、後ろを向かれた。赤く腫れた目で、私を見つめる様子が、私の心を叩きつけた。
 夢かと思った。次に何かの間違いだと思った。まさか、藍様が――。
 そんな事を考えている私に、藍様はいつもとは違う、悲痛な声で、
「橙……すまない、みっともない所を見せてしまって……」
 と仰った。最初で最後の、藍様が泣いている姿は、酷く私の心を打った。
 藍様は紫様の白い手を握って、もう一度紫様の布団に目を伏せられた。
 感謝の気持ちを仰るのが聞こえた。

 藍様の背中が小さく震え、時々嗚咽が漏れていたのを、今でも悲しいくらい鮮明に覚えている。

 ◆

「――?」
 え? 物思いにふけっていて、何を言われたのかが理解できなかった。
「橙様、味加減はいかがですか?」
「え、ああ、ごめんね。
 美味しいわよ、腕を上げたわね」
 私の式は、「ありがとうございます」と粛然と深く頭を下げた。顔をあげた式の口元が、柔らかに笑っている。
「自信があったの?」
「ええ、橙様に喜んでいただけることを望んで、毎日修行をしておりますから」
 嬉しいことを言ってくれる。
 確かに最近の式は腕を上げているように思う。まるで、料理が私の箸を次へ次へと引っ張るようだ。
 物思いにふけながら食べると、上手くは説明できないが、八雲の味がした。

 箸に限界はなくても、腹に限界はある。
「ご馳走様」
「お粗末さまでした」

 ◆

 藍様が八雲の当主になってから、私はすべてにおいて、更に腕を上げたと思う。その頃から、藍様の気持ちを察する事が、何となくだが出来るようになった。
 例えばその頃、私は藍様が被る仮面の正体に気づいた。いいのか悪いのか、私はそれを脱がそうとした。
 ――何故、いつも悩んでおられるのですか? 私で力になれる事は、ありませんか?
 と、私は藍様にお聞きした。藍様は驚いた表情をなさり、「参ったな、橙もそんなに成長していたんだなあ……」と、嬉しそうに、加えて恥ずかしそうに仰った。
 だが藍様は、私には教えてくださらなかった。「なんでもない、すまないな」と仰って、口を閉じられてしまった。


 何十年も経った。
 それは本当に、突然のことだった。
「橙。お前に、八雲の名を授ける」
 いつもよりも威厳、そして何百、何千万倍もの重みのあるお言葉だった。
 何度も、理由をお聞きした。確かに自分でも成長したとは思うが、私はまだまだ半人前。名誉な事だとわかっていたが、遠慮をした。しかし藍様はそれを許さず、ついに私は八雲の名を持つことになった。
 気づかなかった。この時すでに、藍様は私の、近い未来を一足先にご覧になっていたのだ。
 私はその日、鳥の式神を打つ事に成功した。

 藍様に式を紹介した。最初からしばらくは聞いているのかいないのかわからない表情だったが、唐突に藍様の瞳に、藍色の炎が燃え上がった。その時の表情が、初めてお会いしたときの紫様の表情と重なった。
 その時の理由を考えようとしたが、私の式が畳に頭を突っ込み、大笑いしてしまったので、当時は考えるのを忘れていた。

 あの時の藍様は何にお気づきになったのか、今でもわからない。だが、その日を境に、藍様が仮面を被ることはなくなったのは確かだ。


 ある日のこと。私は藍様に呼び出された。
「なあ橙、私も歳をとった。だからあまり働けなくなる。
 お前に任せても、いいだろうか」
 昔から、働き尽くしの藍様ばかりを見てきた。それに、その言葉は八雲の名を授かったときほどでは無いにしろ、宿命的な重みがあったのだ。
 だから、私は喜んで答えた。
「どうぞごゆっくり。あとは我々にお任せください!」
 藍様はその日からかつての紫様のように、働かなくなった。さらには、冬になるとすぐに冬眠されるようになった。
 理由はわからない。でも、藍様の考えがあるに違いない。そう思って、あえて引き止めなかった。
 いつの間にか藍様は、記憶の中に存在する紫様に、非常に似ていた。

「橙さま橙さま」
 ある時、式に聞かれた。
「なぜ、藍さまはあんなにごろごろしているのですか?」
 苦笑した。あまりにもストレートすぎる。そういえば、私がこの子くらいの歳のときも、同じような質問をした。今ならわかるが、紫様には非常に失礼だった。聞こえてなければいいが。
 式は興味に煌く星のような瞳を私に合わせたまま、答えを今か今かと待っていた。
 ――さあ、なぜでしょうね。私にはわからないよ。
 心の引き出しの中、更にその中の小箱に、おそらく理由がある。しかし、あのときから変わらず、今の私にはそれを開く事はできない。

 とりあえず、式の頭を撫でておいた。穏やかな笑顔をしていたが、少し不満そうだった。

 ◆

「橙様、お話があります」
「何かしら?」
 居間でのんびりとお茶をすすっていた私は、式の言葉に耳を傾けた。この子の名前と同じ色の光が、真剣に、冗談を許さないと言いたげに、厳格に、鋭く光っている。

 ……そうか、もうこの子も、そんな時期なのか。
 ちょうど思っていた。この家も二人で住むには広すぎると。もうひとつ、お互いに歳をとったため、若い元気なエネルギーが足りなくて困ると。
 式神を持つ事を許可しよう。しかし、その前にやる事がある。お茶を飲み終え、静かにテーブルに置いた。静寂が支配するこの空間に、その音はいつもよりも大きく響いた。
「こちらへ」
 私の使っている部屋へと式を連れ込む。私は正座をして座り、式にも正座をさせた。
 再び、静寂が勢力を取り戻し始めた。
 さあ、言おう。今まで言った言葉の中の、最も重い言葉で。
「お前に、八雲の名を授けます」

 ◆

 式が随分成長した頃。
 藍様は紫様に自らを重ねるかのように、段々と部屋から出なくなっていた。その部屋とは、今の私がいる部屋。すなわち、かつて紫様がいらっしゃった部屋だ。
 藍様は、かつて初めてお会いしたときと比べると、段々と元気をなくされている。植物が枯れていくようにゆっくりと、ゆっくりと。
「眠いからな」
 そう仰って、大きな欠伸をなさった。欠伸をした後痛そうに体を抑えるのも、もう見慣れてしまった。
 食事の量が少しずつ減っているのも、気のせいのはずがない。
 藍様に限ってそんな事はない。そう考えて、不吉な思いを払拭する。
「変なこと考えるなよ? 私はまだまだ元気だ」
 ほら、怒られてしまった。藍様に額を小突かれる。
「食事はそこに置いてくれ。必ず食べるから」
 一礼して、食事をお食事を藍様の目の前に置く。そう仰るようになってからというものの、一度も食べきってくださらない。
 毎日、そのことを気に病みながら部屋を出た。私にもっと技術があれば、藍様に喜んでいただけるようなご飯を、体が元気になる料理を、作る事ができるのに。
 そんなことを考えていたからか、式に心配されてしまった。
 この時初めて、あの時の藍様の気持ちを理解した。そうして私も、笑顔が描かれた仮面を被るようになった。
 途中で心配されたが、適当に誤魔化した。


 ある夜の事。そう、あの時は私がまだ式の式だった頃、不吉を感じた夜に、非常によく似た、寒くもないのに背筋が冷える夜だった。
 私は突然嫌な予感がし、はっと目を覚ました。体中から嫌な汗が一気に溢れ、着物に貼り付いた。不思議と息苦しく、何かがゆっくりと私の首を絞めているかのように錯覚した。
 幼い頃の記憶がフラッシュバックし、まさか、まさかと戸惑いを覚えた。
 不安、哀切、そしてわずかな恐怖。これら負の気持ちが、止められないほど早く蓄積されていった。ついに溢れ、爆発する。それと同時に、私は藍様の部屋へと向かった。

 藍様は起きていらした。息が荒く、それでも、私を見て微笑んでくださった。
「橙、ちょうどいい所にきてくれた」
 そう仰って、藍様は言う事を利かないらしい、震える右手を伸ばされた。
 私は藍様の布団に近づき、その手をとった。信じられなかった。かつて一緒に散歩したときに握った手とは、かつて私を撫でてくれた手はすで幻になり、酷く痩せていた。
 本当に枯れ枝のようだった。更には、足の先から頭の天辺まで寒気が走るほど、ひどく冷たかった。私は必死にその手を暖めようと、両手で握った。
 無駄だとわかっていながらも、灯火を必死に燃やそうとしたのだろう。

 藍様が、少し嬉しそうな顔になる。私はそれに応じ、さらに手を強く握り締めた。
「橙、お世話になったな。いままでありがとう……」
 信じたくなかった現実が、藍様の一言で確実へと変わった。藍様を包む生者の光が、徐々に失われていく。幻でなく、本当にこの目で見えるようだった。
 藍様が軽く体を右――私の方を向くように捻り、幼い時の様に、左手で私の頬を撫でた。左手に滴る暖かい悲しみは、やがて布団に落ちた。
 ついに、堰が切れた。自分でも抑えられないほどの悲しみの結晶が溢れ、零れ、布団に染みこんだ。止めようとしてもそれは、決して止まらなかった。
 藍様の左手が、私の頬から滑り落ちる。瞳に宿る藍色の灯火が、火影を失っていく。藍色の灯火の宿る世界と、私のいる世界を分離するかのように、ゆっくりと瞼が落とされる。
 やがて、世界は私を残して遮断した。
 私は藍様の布団に顔を伏せ、声を殺して惜別の想いをひたすら流した。その間、ずっと藍様の手を握っていた。

 どのくらい、そのままにしていただろうか。突然、背後から控えめに私を呼ぶ声が聞こえた。
 振り返ってみると、式がいた。そこにいてもいいのかよくないのか、迷っている。初めて、彼女に涙を見せてしまった。
 目を見開き、酷くショックを受けているのがわかる。幼い頃の私も、同じような目をしていたのだろう。
 ――ごめんね、みっともない所を見せた……。
 それだけしか言えなかった。もう式に構っていられなかった。私はただ、藍様の布団に目を伏せ、今までの悲しみの結晶を、空に昇っていらっしゃる藍様へと送り続けた。
 ――今までありがとうございました。
 感謝の気持ちも、悲しみの結晶と共に、貴女にお送りします。

 ◆

「は、は、はじめまして、よ、よ、よろしくお願いします」
 鳥の式が連れてきた式は、小熊だった。見るからに私に怯えながら、挨拶をする。失礼ながらそんな挨拶はどうでもよく、いくつもの考えが頭の中を渦巻いていた。
 一瞬だが、その子が顔をしかめた様な気がする。どうやら、少々怒らせてしまったらしい。小熊が私に目を合わせた。深い色の瞳が、何かを叫んでいる。その時だ。私はその小熊の、決意、不安、期待といった、すべての感情を読み取った。まるでその小熊が、私の頭の中に呼びかけたかのように。
 読み取った感情が、私を囲み、包む込むような気がした。眠っていた本能的な何かを優しく起こした。
 目を覚ましたのは、保護の使命だった。この子を護らなければならない、という宿命的な何か。

 ……そうか。やっとわかった。お前の想い、確かに受け取った。
 お前を必ず護る。その想いは、受け取ってくれただろうか。

「よろしくね」

 彼女は畳に突っ伏した。私たちは思わず吹き出し、その子が顔を真っ赤にしても、笑いがおさまる事はなかった。
 まるで役目を果たしたかのように、私の仮面が足元に落ちた。

 私達八雲の当主は、八雲を継ぐものを護り、道を示す役目を与えられている。そして私達八雲当主自身、その道を辿らなくてはならない。八雲の辿る道を。
 式の式。式。当主。この三つとなり、やっとわかりましたよ、紫様、藍様。私はあなた達と比べて、道を見つけるのは早かったですか?


 大地を照らす光は、いつの間にか家をひっそりと包む闇へと姿を変えていた。
 部屋に帰る。今は捲ってある、二つの掛け軸の裏の、塞がれた穴が、私の視線を受け止めてくれた。

 なるほど、と私はすべてを悟った。発祥は紫様だったのか。
 では紫様はなぜこの跡を埋めなかったのだろう。本当にぐうたらだったのか。

 いや違う。鈍感な私たちに対して、お節介をしてくださったに違いない。
 見てわかるように、藍様もそれに従った。なら私のやる事も、当然決まっている。
「お節介お節介」
 二つの穴に忠実になるよう、申し訳程度に穴を塞いだ。壁からすると不完全だが、八雲からすると完璧だ。
 明日、式に橙色の掛け軸を用意させよう。


 式の式は、最近は問題ないくらいに戦えるようになっていた。おそらく、藍様と出会って少し経った頃の私ほどだろう。
 しばらく一緒に暮らしていたからか、段々と私に対して恐怖心や警戒心が消えているのを感じる。
 ではそろそろだ。式に自立させ、私はひっそりと、この子の式を見守ろう。
「ちょっと」
 式を呼ぶ。作業を止め、素早く私の元へと来た。
 いつまでもこの子達に、親の脛をかじらせてやるわけにはいかない。可愛い子には旅をさせるべし。
 式はきりっとした顔つきのまま、私の前に正座した。
「私もそろそろ歳をとったから、働くのが大変になってきたの。
 お前に任せても、いいかしら?」
 私の問いも、彼女の答えも、変わらない。
「ええ、もちろんです!」
 あの時の私のようだ、と深く思った。彼女の心の中が澄んだ水のように透けて見える。
「じゃあ、よろしくね」
 こうして、かつて私が疑問に感じた、ぐうたらの日々が始まった。これは大切な役目。だから、胸を張って怠けよう。


 何日も何日も、だらだらと式を見守る。無駄に見えて大切な、八雲当主の使命。
 今も使命に忠実な行動、すなわちだらだらしている。いつも働いていたが、やはりこうしている方が楽だ。
 もう少し時間がたったら冬眠もしよう。
「――さま、――さま」
 どこかから、式の式の声が聞こえる。私の式を呼んでいるのだろう。
「なんでいつも橙さまはだらだらしてるの?」
 なかなかストレートだ。今頃、私の式は苦笑しているに違いない。その光景を想像し、思わず私も苦笑する。
 お前たちを自立させ、こっそりお前を見守るための大事な役目なんだよ、と心の中で教えておく。
「ははは、なんでだろう。私にもわからないよ」
 少しは理解しているだろう。でも、完全にわかるようになるには、お前はまだまだ若い。

 紫様、藍様、ご覧になっていますか? これでいいのですよね。
 天井に向かって、お二人に呼びかける。古臭い天井を通して、お二人の満足げな笑顔を幻視した。
 よかった。実は少し心配でした。でも、これで自信がもてました。ありがとうございます。

 台所にいる二人の式を、ちらと眺めた。仲良く話をしている。私のことでなければいいが。いや、やはり訂正。
 私のことだといいな。
 
 お前たちにはこれから、八雲の辿る道を歩んでもらう。当然、その道はでこぼこしていて、進みにくいだろう。更に酷い事に、地図なんてない。
 でも大丈夫。進めばやがて平坦な道を見つける事ができるし、迷うだろうけど自分を信じれば、必ず正しい方向に進める。だから安心しなさい。
 お前たちは自分の考えに頼り、その通りに行動すること。そうすれば、かならず楽園に辿り着けるよ。
 だから、八雲の未来――八雲の辿る道の後追い、まかせるからね。

 正直な私の想いを、メッセージとして託した。彼女たちがそのメッセージを受け取るのはかなり先の事。でも、彼女たちは必ず受け取る。だから私も、心配しなくていい。

 この子達もやがては、私に追いつけないと悩むに違いない。当たり前だ。同じ速度で進んでいるのだから、追いつけるはずがない。
 追いつくのは楽園にたどり着いてからの話。

 長々と偉そうに語っておいて、私自身まだ楽園に辿り着いていない。だから私も、一生懸命歩こう。
 次の一歩、ぐうたらの称号を貰う事。そのための絶対条件、ごろごろする事。
 私は一歩、正しい道へと踏み出した。

 紫様が通り、藍様が通り、今私が通っているのが、八雲の辿る道。その道は、地平線の彼方まで続き、果てしなく長い。
 でも大丈夫、一歩歩けば、楽園は私に一歩近づく。確かな自信が、私の中にある。

 さあ進もう、偉大な先人たちが辿った、八雲の辿る道を――。


【あとがき】
幼き時は、二人の主に頼ること
主に認められるようになったのなら、八雲の名を授かること
当主になり、式を持ったのなら、平静を装い、ひたすら悩むこと
式が式を持ったのなら、二人を静かに見守ること
式の式が、汝が認めるほど成長したのなら、すべてを式に託すこと
ただし、いざとなったら八雲の後継者を、自らを盾にしてでも守ること

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